地域コラボ(タンスの引き出し)

2016.07.26 Tue
東京レター番外編 「ライター高倉優子の熊本帰省日記 その3」

TAN-SUで、心に残るエピソードと短い手紙を1冊の本とともに紹介するエッセイ「東京レター」を連載していたライターの高倉優子さん。熊本出身の彼女が4月14日と4月16日に発生した熊本地震の後、被災した故郷へ帰省し、実際に見て、聞いて、感じたことを綴ってくれました。短期集中連載(全3回)の最終回は、避難所での出会いや友人たちとの交流がテーマです。
第1回はこちら。http://tan-su.com/archives/12516
第2回はこちら。http://tan-su.com/archives/12772

 

避難所で懐かしい人と再会する。

我が家から徒歩1分。中央区の指定緊急避難場所となっていた母校の中学校には、4月16日の本震発生後、余震の恐怖から「自宅に戻れない」という近隣住民が押し寄せた。

校庭は車中泊する自動車で埋め尽くされ、開放された教室や体育館にも人があふれていたという。

熊本県全体だと、本震直後の避難者は約18万人にものぼったそうだ。

私が訪れたときは本震から約半月が過ぎていたこともあり、避難者は減っていた。それでも体育館には30~40名ほどの人がいただろうか。

落下してケガなどしないようにと、大きな照明器具はすべて天井から取り外され、床に並べられていた。そのせいでかなり薄暗い体育館を、父と母と一緒にそろりそろりと歩いた。

午後8時過ぎだったこともあり、ほとんどの人たちは自分の布団の上で横たわっていたり、おしゃべりしたりしている。

ふと、少し離れた場所から「あらぁ~!」と言う声が聞こえた。そちらの方向を見た父が「ああ、おばちゃん、ここにおんなさったんね!」と嬉しそうに笑顔を浮かべて、歩き出した。

声の主は、私も学生のころにお世話になった近所の商店のおばちゃん(80代のAさん)だった。おじちゃんが亡くなった後、店を閉めて移り住んだという自宅マンションが本震により半壊。1階部分が潰れ、上階で寝ていたAさんと娘さんは部屋に閉じ込められてしまったという。

「必死で大声ば上げて、新聞受けから懐中電灯で合図ば送ったら、消防署の人がドアをこじ開けてくださったと。救出される様子がテレビ中継されていたみたいで、甥っ子から『おばちゃん、テレビに映ったよ!』って、電話がかかってきたとよ」

辛い思いをしたであろうAさんは、身振り手振りを交えながら茶目っ気たっぷりにこう続けた。

「ここにおったら朝と夜は食事も支給してもらえるし、更衣室もある。男の人たちとの間に仕切りを作ってもらえたし、何より端っこのスペースも確保できたけん、嬉しかねぇ」と。

Aさんは娘さん、避難所で知り合ったという70代の女性ふたり(Bさん、Cさん)と体育館の一番奥にいた。人間はパーソナルスペースが確保しやすい「端っこ」にいると落ち着くというけれど、彼女の言葉を聞いて「本当にそうなのだ」としみじみ思う。

そしてふと、地震発生から毎日のようにメール交換をしている友人の顔が浮かぶ。彼女がこんなことを言っていたのだ。

「女ひとりだと避難所にも居づらいんだよ。ほとんどは家族でしょう? そこに入り込む勇気はないし、男の人たちと布団を並べて寝るのも落ち着かない。家は物が散乱しているから会社に寝泊りしているけど、社内カウンセラーから『みんな頑張っているんだから甘えるな。避難所へ行きなさい』って言われて落ち込んだ……」

東京でひとり暮らしをしている私にとっても、身につまされる話だった。もし自分の身に大災害が起こったら、そのとき私はどこでどのように避難生活を送るのだろう? まったく想像できない。いやきちんとシュミレーションしておかねばならないのだと、肝に銘じる。

SnapCrab_NoName_2016-7-25_23-53-35_No-00指定緊急避難所である母校の中学校。本震から約半月が過ぎたこの日も、校庭は明々と照らされていた。「1日の流れ」と書かれたスケジュール表には、昼食のところに線が引かれ「各自でご準備ください」と追記されている。この避難所での支援は縮小されていることが伝わってきた。体育館のステージ上には更衣室や授乳室のほか、子どもが遊べるプレイルームも設置されていた。指定緊急避難所である母校の中学校。本震から約半月が過ぎたこの日も、校庭は明々と照らされていた。「1日の流れ」と書かれたスケジュール表には、昼食のところに線が引かれ「各自でご準備ください」と追記されている。この避難所での支援は縮小されていることが伝わってきた。体育館のステージ上には更衣室や授乳室のほか、子どもが遊べるプレイルーム

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SnapCrab_NoName_2016-7-26_1-12-39_No-00送られてきた物資が体育館の入口あたりに分類されて並んでいた。ホワイトボードを見ると、揃っているものと足りないものが一目瞭然だ。飲料水と書かれたポリタンクは少々味気なく感じたが、お花の差し入れも置いてあり、気持ちが和む。避難している人が穏やかに過ごせますようにという願いが伝わってきた。

 

「熊本で地震は発生しない」と誰もが思っていた。

翌日、改めて差し入れを持って行くことに決めた。私同様、Aさんの商店を利用していた妹と、その息子である甥っ子(小学6年生)も「おばちゃんの顔が見たい」ということで、一緒に行くことに。

東京から買って帰ったお菓子をかわいくラッピングし、さらにポットや急須を準備した。もし自分が避難していたとしたら、淹れ立ての日本茶が飲みたくなると思ったのだ。

母が「お客様用のおいしい茶葉を持って行ったら?」と提案してくれたので、玉露を選ぶ。

祭日だったこともあり、普段は勤めに出ている娘さんも避難所にいておばちゃんとおしゃべりに興じていた。Bさんは新聞、Cさんは雑誌を読んでいるところだった。

甥っ子が照れくさそうに「こんにちは」と告げると、「あらあら、かわいいお客様ね」と笑顔で歓迎してくれた。お茶を淹れると「熱い日本茶を飲んだのは地震の日以来かもしれない」「紙コップじゃなく、お湯呑みで飲めるのが嬉しい」などと言って、お代わりしてくれた。

日本茶のおかげで距離が近づいたのか、BさんとCさんも被災したときの様子を語ってくれた。

ふたりは同じマンションの1階と2階でひとり暮らしをする友人同士だった。終の棲家として選んだマンションが震度7の揺れで半壊。取るものも取りあえず、ふたりで避難所に身を寄せたのだという。

「新しい住まいはどうなさるんですか? 仮設住宅はここから遠い場所にしかできないですよね?」と少々立ち入ったことを尋ねると、「大家さんから『新しい家を見つけるまで待っていてほしい』と言われているんです。だからしばらくは避難所生活を続けると思う。やっぱりふたりで同じところに住みたいから」とのこと。

彼女たちの住まいは賃貸だったのだ。

母の友人である高齢のご夫婦は、やはり終の棲家としてリフォームした中古マンションを購入した直後、地震に見舞われた。ローンも残っているなか、「修繕費用が捻出できない」と嘆いているという。私の友人も新築したばかりの家に亀裂が入り、引越しを余儀なくされた。

「熊本で地震は発生しない」

私も家族も友人たちも、なぜか勝手にそう信じていた。けれど、地震大国・日本に住んでいる以上、どこでどんな天災が発生しても不思議ではないのだ。

今回、そのことを思い知らされたし、私自身で言えば、「家」について考えさせられる機会にもなった。賃貸と持ち家、それぞれのメリット・デメリットをしっかり見極めなくてはいけない。

もっと言うと、今日やれることを先延ばしにしてはいけないと思う。明日生きていられる確証なんてない。平和ボケ・安全ボケしてはいけないのだ。

SnapCrab_NoName_2016-7-26_1-18-24_No-00「少しでもほっこりしてもらえたら」と淹れた日本茶。東京土産の詰め合わせをお茶請けにお持ちした。Aさんと娘さんが出口まで見送ってくれ、甥っ子と笑顔で握手してくた。避難所に置いてあった支援メニューをもらって帰る。熊本市で受けられる納税の猶予や、各種問い合わせ先などが記されていた。

 

「できることを、できるしこ」。長く続けていくことが大切。

1週間の帰省はあっという間に終わりを告げた。いつも別れのときは寂しいけれど、今回はとくにセンチメンタルな気分だった。

私は東京で働きたくて上京した。自分で選んだことだ。だから羽田空港に着くと嬉しくなっていつも「ただいま」とつぶやく。けれどこのときは初めて「帰りたくない」と思った。

後ろめたい気持ちでいっぱいだったのだ。

空港に見送りに来てくれた母の目が潤んでいた。もらい泣きしそうだったので明るい調子でこう言った。

「また夏に帰ってくるけんね」

父も母も黙ってうなずいた。飛行機に乗った後、私は少し泣いた。

 

本震発生から3ヶ月。いまなお友人たちとはこまめに情報交換をしているし、家族とは毎日電話で話している。

でも自分の無力さを突きつけられ、落ち込んでばかりの日々だ。

土砂災害により、大切な人のお墓が埋もれてしまった友人。

「いつかは『救出』してもらえると信じているけれど、ただただ悲しい」と涙を流す彼女に、かける言葉が見つからなかった。

生きている人が優先なのはわかる。でもお墓は彼女と故人をつなぐ心の拠り所だったのだ。その場が土砂で埋もれていることが無念でならない。

ほかにも、いろんなことがあった。

「復興につながるから」と自社製品を買わせようとする知人。

友人との会食風景をアップしたSNSに「被災地では食事もままならないのに不謹慎だ」と苦情を書き込んできた人。

東日本大震災のときも感じたけれど、災害時にはそれまでに見たことがない人間の一面が表れてくるものだ。うんざりしつつも、彼らの本質を知ることができてよかったかもしれないと思った。

「復興」

その二文字がいまはとても遠く感じる。自分にできることの少なさにもへこむ。

けれど、嬉しいこともあった。仲良くしてもらっている女性作家さんと編集者さんから、「熊本のために役立ててほしい」とお金をいただいたのだ。別の友人は愛のあふれる手紙を送ってくれた。

彼らにとって「熊本といえば私」なのだろう。覚えていてもらえたことがありがたいし、へこんでばかりもいられないと背筋が伸びる。

難しく考えなくていい。

「自分にできることを、できるしこ(できるだけ)」で十分なのだ。大切なことは忘れないこと、そして支援を続けていくこと。

まずは今夏、益城町で避難所暮らしを続けている友人を見舞うつもりだ。

私を育ててくれた熊本の街。そして大切に想ってくれる熊本の人たちに、少しでも恩返しができたらいいなと思っている。

(了)

SnapCrab_NoName_2016-7-26_1-32-55_No-00阿蘇くまもと空港の土産物店には、熊本のPRマスコット・キャラクター「くまモン」が付いた食品がズラリと並んでいた。お菓子だけでなく、熊本の県民食ともいえる春雨スープ「太平燕(たいぴーえん)」などもある。東京で待つ友人たちのために、たくさん購入した。

 

文・写真 高倉優子

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TAKAKURA

高倉優子(ライター・ブックレビュアー)
熊本県出身、東京都在住。新聞社勤務を経てフリーライターに。著名人のインタビューや、書籍の企画・執筆をはじめ、ブックレビュアーとして、書評、文庫解説の執筆、文学賞の選考などを行う。エッセイ「東京レター」(http://tan-su.com/series/tokyoletter)をTAN-SUで連載していたほか、ブログ「きょうの取材ノート」を日々更新。書評ユニット「東京女子書評部」を主宰し、イベント等を開催する。