地域コラボ(タンスの引き出し)

2016.06.14 Tue
東京レター番外編 「ライター高倉優子の熊本帰省日記 その1」

TAN-SUで、心に残るエピソードと短い手紙を1冊の本とともに紹介するエッセイ「東京レター」を連載していたライターの高倉優子さん。熊本出身の彼女が4月14日と4月16日に発生した熊本地震の後、被災した故郷へ帰省し、実際に見て、聞いて、感じたことをエッセイとして綴ってくれました。3回の短期集中連載としてお届けします。

 

「森の都」と世に謳われた熊本はブルーシートで「青く」染まっていた。

2016年4月30日。私は羽田空港発、阿蘇くまもと空港行きのJAL便に搭乗していた。

故郷の熊本で未曾有の大地震が発生してから約2週間、東京での仕事をやりくりして、やっと帰省することができたのだ。

家族や友人とは毎日、電話やSNS等で連絡を取り合っていたけれど、彼らの疲れが日に日に濃くなっているのは手に取るようにわかった。

両親は熊本出身の歌手、島津亜矢さんが歌う『帰らんちゃよか』の歌詞を真似て、何度も「帰らんちゃよかばい」と言っていた。母に至っては「ゴールデンウィークなんだし、旅行にでも行ってくれば?」などと健気なことを言ってくれたが、そんな言葉は聞き流し、大急ぎでチケットを取ったのだった。

飛行機で隣に座ったSちゃんも同じ熊本出身で、この4月に東京の大学に入学したばかり。「早く東京の暮らしに慣れたかったんですけど、母のことが心配だから帰省することに決めたんです」と話してくれた。3月までは母ひとり、娘ひとりで暮らしきたのだという。

離れているからこそ余計に心配は募る。自分ひとり帰ったところで何もできないかもしれない。けれど大切な人のそばにいたい。そう思う気持ちはみんな一緒なのだろう。

機内を見渡すと、観光客らしき人は少ないように見えた。私やSちゃんと同じように家族や親戚や友人が気になって帰省する人も多いのだろう。「みんな、地元で頑張ってきましょうね……」と、勝手にシンパシィを覚えていると、

「あの場所って、阿蘇大橋が崩落したところじゃないですか!」と、ふいにSちゃんが興奮気味に窓の外を指差した。確かに、のどかに続く田園地帯が、突然プツリと途切れている部分が見てとれる。

きっとそうだ!

阿蘇大橋は父方の祖父母が住む高森町に行く際、いつも通っていた。国道に架かる頑丈な橋が瞬時に崩落し、尊い人命を奪ってしまったなんて、とても信じられない。自然災害の恐ろしさを上空から見せつけられて、足がガクガクと震えた。

さらに、飛行機が市街地に差しかかったとき、それまで田んぼや畑が続く緑色だった風景が、青色に変わった。

それらがブルーシートを被った屋根であることは連日の報道からすぐにわかったのだが、実際に自分の目で見ると、あまりにショックが大きすぎて言葉が出てこない。心を鎮めるために、自分の肩とSちゃんの肩をさするのが精一杯だった。

かつて夏目漱石に「熊本は森の都だなあ」といわしめた緑豊かな町並み。美しい故郷は変わり果ててしまった。そのことが、ただただ悲しくて仕方ない。

15月5日付、地元紙である熊本日日新聞社の朝刊の1面から。上空から撮影された、ブルーシートで覆われた屋根が連なる市街地の様子。

 

空港で家族とくまモンに迎えられ、涙がこぼれそうになる。

阿蘇くまもと空港に着いた。Sちゃんと連絡先を交換して別れた。東京で再会出来たらといいなと思う。ロビーに出ると、父と、中2の姪、そして小6の甥が迎えに来てくれていた。3人の顔を見たらホッとして涙がこぼれそうになる。

私を見つけて甥がニカッと笑った。地震発生直後から休校になっていたこともあり、彼は「現地リポーター」として、いつも家族の日常を報告してくれていた。

「おばあちゃんちで2カ所、雨漏りが発生しました!」「僕のマンションはいまだ、ガスと水が使えません」などなど。ときにシリアスに、ときにユーモアを交えつつ……。

大人たちが後片付けや仕事に追われ、多忙を極め、ナーバスになるなか、彼は常に冷静だった。家族の精神状態を見定めながら「優ちゃん、いま、おじいちゃんなら話せそうだよ。電話、代わろうか?」などと、私と家族を繋いでくれる役目も担ってくれた。そんな彼の存在が私の救いだった。

「おかえり!」

ちょっと照れくさそうにはにかむ彼、すまし顔を向ける思春期の姪、ニコニコと嬉しそうな父と順番にハグをした。嬉しかった。そのうち、涙が引っ込んだ。

そうだ、私はみんなを励ますために帰ってきたんだ。泣いている場合じゃないぞ!

2ターンテーブルで目が合った、おとぼけ顔の憎いやつ。これまでそんなにかわいいとは思わなかったけど、どんどん好きになっている……。
熊本のこと元気にしてね、くまモン!

命さえあればいい。生きるために必要な物は、そう多くない。

折しも、その日は父の72回目の誕生日だった。大阪から、私同様「お手伝い帰省」してきた、ひとつ歳下の従兄弟とその妻、そして地元在住の従姉妹や子どもたちも駆けつけ、我が家でバーベキューパーティを開くことになった。

数年前に咽頭がんと肺がんを患い、一時期、医師から「最悪のことも覚悟してください」と告げられた父。大手術と長期の治療を経て、まさに「九死に一生を得た」彼が、煙のなか、汗を拭き拭き、庭で肉を焼いている。

その姿を見つめながら、病気はもちろん、今回の地震にも耐え、生きていてくれてよかったと心から思った。

子どもたちが焼けた肉にワーッと群がり、ニコニコ顔でほおばっている。それを見ている大人たちも自然と笑顔になっていく。

続く余震のせいで寝不足が続き、3キロも痩せてしまった母が、「地震のあと、初めて心から笑った気がする。余震、余震で、心が休まらなかったからね……。優ちゃん、帰ってきてくれてありがとう」と言ってくれた。

民生委員をしている母は、自宅の片付けもそこそこに、高齢者や障害のある方、避難所に身を寄せている方など、地域で関わりのある方の元を飛び回って、心のケアに努めていた。

震度7の本震の後、「ひとり暮らしのおばあちゃんはご無事かしら? お母さん、行ってくるけん!」と、真夜中にも関わらず、飛び出して行こうとしたのを「朝になるまで待って」と、電話越しに必死で止めたことが昨日のことに思い出される。

彼女は世話好きで責任感が強い。だからこそ少しでも母のそばにいて、無理をしすぎないようにブレーキをかけたいとも思っていた。
我が家は熊本城から徒歩10分ほどにある、昭和29年に建てられた木造家屋だ。よく倒壊しなかったものだと感心するほどに古い。倒壊を免れたのは幸運だったけれど、被害は決して少なくなかった。

例を挙げてみよう。

瓦が割れて落ちた。壁にヒビが入った。床が傾いた。天井の隙間から積もりに積もった塵(ちり)や埃(ほこり)が床に落ち、家中が砂まみれになった。

食器棚が倒れ、ガラス製品がたくさん割れた。冷蔵庫が傾き、中のものが飛び出た。庭の石垣が崩れ、植木も倒れた……。ダメだ、とても書き尽くせない。

帰省中は「無理せず、できる範囲で」を合言葉に私もせっせと片付けを手伝うことにした。ケガをしないように割れたグラスや食器を処分し、「いまこそ断捨離だ!」と不要な衣類や書籍などを片っ端から整理していく。

最初は「もったいない……」と渋っていた母も、だんだん「そうね、生前整理よね!」と腹を括った様子で思い切りがよくなり、部屋の中がスッキリしていくにつれて笑顔が増えていったように思う。

不要なものを整理して実感したのは「生きるために必要な物は、そう多くないんだ」ということだった。

「命さえあればいい」。本当にそのひとことに尽きる。

3崩落した庭の石垣は我が家に隣接する熊本市の施設のもの。そのため、地震後すぐに修繕工事が始まったが、なかなか進まないようだ。

DSC_4428瓦が落ち、我流でブルーシートを張ったものの雨漏りが発生。父の友人の瓦職人さんが無償で張り替えに来てくれた。
「困ったときはお互いさまだよ!」という助け合いの精神が嬉しい。

5付け中に見つけた私が子ども時代に大事にしていたお人形。「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えてサヨナラした。

(「その2」につづく)文・写真 高倉優子

 

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TAKAKURA
高倉優子(ライター・ブックレビュアー)
熊本県出身、東京都在住。新聞社勤務を経てフリーライターに。著名人のインタビューや、書籍の企画・執筆をはじめ、ブックレビュアーとして、書評、文庫解説の執筆、文学賞の選考などを行う。エッセイ「東京レター」(http://tan-su.com/series/tokyoletter)をTAN-SUで連載していたほか、ブログ「きょうの取材ノート」を日々更新。書評ユニット「東京女子書評部」を主宰し、イベント等を開催する。